伊藤雅代というひとりの人間の姿で病室に
そこにいるのは、森瑤子という作家の姿ではなく、まぎれもなく伊藤雅代というひとりの人間の姿だった。私は何も言うこともなく、しばらく黙ってベッドの横の椅子に坐っていた。病室の窓の外に、風に揺れているシュロの葉が見えるような気がした。
「もう一つ」
と、彼女が細い手をさしだして言った。私はバケツから氷の塊をとりだして彼女に渡した。そのバケツが決して清潔な医療用の容器ではないことが、私には辛かった。学校で掃除のときに使うような普通のバケツだったからである。
しばらくその部屋にいて、何度か氷の塊を手渡すだけで私は部屋を出た。
「お大事に」
などとは言わなかったし、「じゃあ、また」
とも言わなかった。
「しかたがないね」
と、呟くのが精一杯だった。私がそう言って立ち上ると、彼女は「うん」とうなずいて、目をつぶった。
森瑤子についての伝説は沢山ある。『森瑤子の帽子』(島崎今日子著/幻冬舎文庫)のような綿密な伝記もある。戦後日本のバブル期を駆け抜けた時代の寵児、などという惹句もある。また女性のセクシュアリティに迫った現代作家、といった評価もある。