ギアをローに入れたままで走っているよう
いちど彼女に招かれて、与論島の別荘にでかけたことがある。数人の作家と編集者が一緒だった。
その家の彼女の書斎の窓から、大きなシュロの葉がしきりに揺れるのが見えた。
「南の島というから、なにかねっとりした眠いような気候を想像してたんだけど」
と、彼女は窓の外の風に揺れるシュロの葉を眺めながら言った。
「一日中、ずっと風が吹いてるんですよ。窓から見えるシュロの葉が、絶えず揺れているのを見ていると、すごく不安になるの」
流行作家として功成り名遂げた感じの森瑤子が、どこかおどおどした感じで呟いた言葉が、長く私の記憶に残った。
彼女は何が欲しかったのだろうか。私にはそれはわからなかった。ジャーナリズムでの彼女の疾走ぶりは、車のギアをローに入れたままで走っているような感じがした。セカンドに、そしてサードに、と滑らかにギアを変えていく技術は彼女にはなかったのだろう。
森瑤子はたしかに華やかな存在ではあった。そのイメージは、ほとんど完璧だったが、車はローで走り続けるわけにはいかない。しかし、速度に応じて滑らかにシフト・チェンジする技術も、そうする気持ちも、彼女は持っていなかったのだろう。
森瑤子と最後に会ったのは、聖蹟桜ヶ丘のホスピスの一室だった。
彼女が親しかった編集者を通じて、会いたいと言ってきたのだ。