布団に腹ばいになって、原稿用紙に書く
談志自身もたくさんの連載をもち、本を書いた人でしたが、自分が「作家」だという意識はまったくなかったですね。ただ、ものすごく筆マメで、原稿も手紙もメモもどんどん書いたし、とにかく書くことが好きでした。
あるとき、文庫の解説をどなたに依頼するべきか編集者の人と悩んでいて、本人に相談したら「俺が書くヨ、原稿料出るんだろ?」って。覆面で「謎の落語家X」ということにしようって乗り気だったんですが、「著者本人の解説は原稿料が出ない」と編集部に言われ、実現しませんでした。もし書いていたら、自分の本をベタぼめしたか、それとも客観的に分析したか。今となっては読んでみたい気がします(笑)。
机に向かってというより、布団に腹ばいになって、原稿用紙に書くのがいつものスタイルでした。すべて手書きで、しかも早い。200字詰めの原稿用紙10枚くらいなら、30分くらいで仕上げていました。途中で間違っても、「ちょっと待てよ。ああこっちだった」ってそのまま書いて、すらすらと続けてしまう。調べ物をしてから書くということもなく、昭和歌謡でも昔の芸人さんの話でも、すべて自分の記憶だけで書いていました。
「長屋」と書いて「うち」、「談志」と書いて「おれ」と読ませるふりがなの使いかたも、自分が発明したんだと威張っていました。弟子にもよく「書けないやつはダメだ」と言っていて、文章で表現する能力は必要だと考えていたようです。そのせいか立川流一門は今でもやたらと本を出すんですが(笑)。
小説はあまり書きませんでしたが、『酔人・田辺茂一伝』や、毒蝮三太夫さんなどのことを書いた『談志受け咄』が唯一それらしいものでしょうか。『酔人・田辺茂一伝』は田辺さんへの思いのつまった、談志にとって大切な本だったと思います。
単行本版は山藤章二画伯のイラストがカバーでしたが、「まごうことなき田辺先生の背中だ」と気に入っていました。トレードマークだった手提げカバンの実物が、二人の通っていた銀座のバー「美弥」にずっと飾られていました。数年前に閉店してしまったのですが、あのカバンはどうしたのかなぁ。