終戦後も続いた「疎開」
終戦を迎えると、夫人は軽井沢から帰京した。
しかし息子は奥日光にいた学習院初等科の級友たちに合流した。当時の皇太子明仁を含め、生徒たちはまだ疎開を続けていたのだ。
戦争が終わったのに、なぜ東京に戻らないのかと思われるだろう。
いや、終戦を迎えたからこそ、新たな危機が皇太子に迫っていたのである。
なにしろ、これから占領軍が進駐してくるのだ。天皇と皇太子の処遇がどうなるのか、誰にもわからない。皇太子がアメリカに強制拉致されるかもしれないという衝撃的な情報もあった。
また、徹底抗戦を唱える日本軍兵士も多く残っており、直情的な軍人たちが皇太子を盾に立てこもる可能性もあった。
そんな張り詰めた状況のなか、皇太子ら学習院の生徒たちは、毎日、奥日光の金精峠(こんせいとうげ)を歩いて越える練習に励んだ。
この峠を越えれば戦車に乗り、軽井沢方面へ退避できる。しかし、峠への道中には湿地帯があり自動車も馬も通れない。
いまとなっては笑い話のようだが、いざというときは駕籠で皇太子をかつぎ、徒歩で逃げのびる計画だったのである。
子爵夫人の息子もこの訓練に励み、その様子を手紙で母親に知らせた。日記にはその手紙が挟まれていた。
そして息子が「ご学友」であったという点から、猪瀬氏は「ジミー」の手がかりをつかむ。
それは皇太子のニックネームだったのだ。