厳しい疎開生活を経て、子爵夫人は自力で人生を切り拓く手応えを感じていた。そんなとき出会ったのが知性と活力あふれるケーディスである。
特権階級の甘えから抜け出せない夫には、もはや愛情を感じられなくなっていた。

内閣書記官長主催の会はその後もさまざまな形で催され、子爵夫人とケーディスの交流は、恋愛へと発展していく。
こうして、マッカーサーの豪腕ともいえる日本占領政策は、その実行部隊の中心たるケーディスの秘められた恋と同時に進行していくことになる。

二つの天皇誕生日になにがあったか

一方、マッカーサーの緻密な計画は次々と実行に移されていく。

4月3日に天皇不起訴が決まると、同月29日、A級戦犯28人に起訴状が伝達された。
4月29日は昭和天皇の誕生日であり、のちの「みどりの日」である。

その後、東京裁判にて2年にわたる審理が行われ、昭和23年11月12日、判決の言い渡しがあった。
28人のうち、絞首刑は東條英機をはじめ7名。

この7名の処刑にいたるまでの進行は驚くべき厳密さである。
12月22日23時40分、この7人が巣鴨プリズンの独房から引き出される。僧侶が立ち会い儀式が行われ、刑場へと向かう。
23日0時きっかりに、絞首台へのぼる階段の前に立つ。
0時1分30秒、刑が執行された。

戦犯が投獄されていた巣鴨プリズン

ストップウォッチではからなければ実行は不可能であり、12月23日、皇太子明仁の誕生日にあわせて処刑されたとしか言いようがない。
まさに皇太子15歳の誕生日であり、のちの「天皇誕生日」となる日であった。

子爵夫人の綴った「ジミーの誕生日の件、心配です」とはこの処刑を指していたのではないか。

そしてこの日をもって、マッカーサーの日本統治における計画は大きな節目を迎えることになる。ケーディスは帰国し、子爵夫人の恋は終わる。
それが日記の途切れた理由だったのだ。