学習院の生徒たちが無事に帰京したのち、授業が再開されると、英語を担当したアメリカ人の教師、エリザベス・バイニング夫人は、生徒たちに英語の名前をつけた。
先頭からアルファベット順に、アダム、ビリー……ときて、皇太子は「ジミー」。

手紙を受け取った当時、副都知事だった作家・猪瀬直樹氏

猪瀬氏はバイニング夫人の著書『皇太子の窓』を読み、このことを知っていた。
子爵夫人も、皇太子につけられたニックネームについて、息子から聞いていた可能性は高い。つまり、「ジミー」は皇太子明仁を指すのではないか。
では、「ジミーの誕生日」に、何があったのだろうか。

 

マッカーサーと天皇制

日記が書かれている昭和20年から23年の期間は、日本にとって大きな節目となった時期である。
東京裁判によって過去が裁かれ、日本国憲法によって新しい国のありかたが決められた。

GHQの最高司令官マッカーサーは、日本を平和的に武装解除するため、天皇制の維持が不可欠だと考えていた。
しかし戦勝国の間に天皇の戦争責任を問う声は根強く、国際法廷に引きずり出される可能性も高い。

そこで、他国から口出しされる前に、新憲法の骨子を決めてしまおうというのがマッカーサーの作戦だった。
天皇の権力を制限し、武力は放棄する。この案が先んじてワシントンの「極東委員会」に届けられれば、天皇の不起訴が決まる可能性が高い。

しかし、日本政府による草案づくりは遅々として進まなかった。

業を煮やしたマッカーサーは、とうとう部下に命じて、新憲法の草案を作らせてしまう。
中心になって進めたのは、マニラで苦戦をともにした腹心・ホイットニー准将と、民政局次長のケーディス大佐である。
ホイットニーもケーディスも弁護士資格をもつ軍人だった。慌ただしく専門家が集められ、1週間の突貫工事で草案は完成した。

昭和21年2月13日、この草案は驚くべき演出とともに、外相の吉田茂邸に持ち込まれる。
使者は、ホイットニー、ケーディス含め4人である。