松山バレエ団稽古場でのひとコマ。長男でバレエ団の総監督(当時)の清水哲太郎さん(左)とともに指導を行う松山さん(写真提供:読売新聞社)

戦時下に軍人から恫喝されたことも

松山さんの歩みを振り返ると、気迫で道を切り拓いてきたことが、入魂の踊りにつながったとわかる。松山さんは鹿児島県出身。1936年に日本劇場(日劇)に作られたバレエのプロ養成機関に1期生として入り、本場ソ連(当時)で活躍したオリガ・サファイアさんから直接指導を受けた。

戦時中は、日本でいち早く本格的なバレエの上演を目指した東勇作バレエ団で活躍するが、主宰の東さんが徴兵されたために中断。それでも稽古を続け、「戦時下に何事か」と軍人に恫喝されたこともあったという。

46年には、焼け野原から日本バレエが復興するきっかけとなった日本初の『白鳥の湖』全幕公演に出演した。

ダンサー、振付家としての代表作は『白毛女』。解放前の中国で広まった民間伝承をもとにした作品だ。ヒロインは貧しい農民の娘・喜児(シーアル)。彼女は悪徳地主に虐げられて雪山深くに逃げ込み、黒髪が白くなるほどの苦難を味わいつつも、八路軍に入った婚約者と再会して村を救う。その映画版を見て感動した松山さんが、55年に中国に先駆けてバレエ化したのだ。

その年、松山さんはサルトルら同時代の文化人が集ったヘルシンキ世界平和大会にも出席。帰途に中国に招かれて「日本の白毛女」と大歓迎された。そこで、周恩来首相の知己を得て、58年に初の訪中公演を実現し、『白毛女』を踊った。

弱者に寄り添い平和を祈るバレエは、中国の庶民に熱狂的に受け入れられた。とはいえ、中国共産党に取り入ろうとしたわけではない。

「(『白毛女』バレエ化のきっかけは)純粋に芸術的な感動から。白毛女のパアッと流れる白い髪、すごく印象的でしょう。バレエには絶好の素材なのです」
「バレエを対社会的に認めてもらいたくて、運動としてやってきました」

と、インタビューで語っている。

松山門下に入った森下さんは、バレエの神髄を手取り足取り教わって、74年にブルガリアで開かれたヴァルナ国際バレエコンクールで金賞を受賞。日本のバレリーナの実力を世界に示した。

森下さんはこう振り返る。

「参加する前の稽古で、細やかに見てくださいました。先生は〈濁り〉に対して敏感。自分の中の本当のものが、おのずとわきでてくるように、浄化していくようにと教えてくださいました」