大江健三郎からの電話
大江健三郎から電話がかかって来たのは、その2、3日後である。
「この間はどうも」というような挨拶を、口のなかでボソボソいうと、大江はおっとり刀という調子で、「ときに江藤さん、石原さんのテレビを見ましたか?」とたたみかけた。
大江の注進によれば、石原は某民間テレビの討論番組で、さっそく、例の「立国は私なり、公に非ざるなり」をぶちあげていたというのである。そして、この名文句が引用された討論の文脈は、私の解説した福沢の場合と大分ちがっていたというのである。
「石原さんはいったい『瘠我慢の説』を読んだのかなあ」と大江がやや技巧的にいった。
「さあね、どうかなあ」と私は答えた。
古風な表現を用いれば、私は微苦笑せざるを得なかった。読んだにせよ読まなかったにせよ、石原が彼一流の早わかりで、福沢の言葉を石原慎太郎流に変形してつかったことは、火を見るより明らかであった。
知識は本から来ると信じ切っているような優等生肌の大江とはちがって、もともと石原にはブッキッシュ(学者風)なところがない。
そのかわりに、気に入った言葉が見つかると、それを最初の文脈からすくいあげて、サッカーのボールをドリブルするように、蹴っ飛ばしたりはずませたりする癖がある。
もう十年ほど前のことになるが、ある文芸雑誌の対談で、私が「批評家というものは砲兵のようなものだが、作家はいわば歩兵だ」と石原にいったことがある。
私は、批評家がいくら新文学待望の論陣を張っても、肝心の作家が実作で応えてくれなければどうにもならない、というような意味でいったのである。
そのときも石原は、「ふんふん」といってうなずいていたが、間もなくあちこちで「作家は歩兵で批評家は砲兵だ」というのをぶちはじめた。それはあたかも石原が一軍を率いて、鬼ケ島に鬼征伐にでも出かけるような勢いだったので、私はやはり当惑せざるを得なかった。