石原ぐらい、自分を説明するのが下手な人間もすくない
考えてみれば私は、石原慎太郎と政治の話をしたことが一度もない。
以前石原と大江健三郎と三人で、まわり持ちで飯を食う会をやっていたことがあるが、私の提唱で、食卓では政治の話をしないという中国人の故智に倣うことにしたので、少なくとも正面切ったかたちでは、石原と大江のあいだに論争がおこるようなことはなかった。
私たちは、たいがい文学の話をしたり他人の悪口をいったりした。文学はおたがいの仕事であるから、話がはずむのはあたり前である。
話が近作の批評に及んだりすると、あの神経過敏な大江が、ものを考えている兎のように首をかしげて、案外率直に石原や私のいうことを聴いた。それは、活字になる場所では、めったに見せることのない大江の素直ないい面である。
つまり、はじめから路線を決めて反対したり反撥したりするつもりになっていないときの、本来の大江のよさである。
編集者がいたり左翼の学者がいたりしない場所では、大江もつくり声を出さなくても済むということを、3ヵ月に一遍ぐらい確認できるのは悪くなかった。
石原はといえば、私はいままでただの一度も、石原慎太郎がつくり声を出したのを聴いたことがない。彼はときどき素ッ頓狂なことをいうが、言々句々これ肺腑の言であることにかわりはない。困ったことに、ときどき肺腑をつく叫びが先に立って、言葉が思うようについて行かないので他人に誤解されるのである。
まったく石原ぐらい、自分を説明するのが下手な人間もすくない。大江がどもりながらする自己解説は、もっともらしく聞こえて得であるが、石原が早口でいう観念語まじりの慷慨調は、しばしばなんのことだかわからないことがある。
あれでいったい選挙に出て大丈夫なのだろうかと、のちに石原が選挙に出るという話を聞いたとき、私はひとごとながら気をもんだものである。