「立国は私なり、公に非ざるなり」

そういえばあるとき、私は石原と大江の前で、福沢諭吉の「瘠我慢の説(やせがまんのせつ)」の話をしたことがある。これは福沢が、明治24年の冬頃に執筆して、勝海舟・榎本武揚の両名に示した問責の書である。

旧制湘南中学時代からの親友・江藤淳さん。1961年6月撮影(写真:本社写真部)

勝も榎本も福沢同様に旧幕臣であるが、在野の思想家・教育家として終始した福沢とはちがって、明治新政府に出仕し、台閣に列したり爵位を得たりした。

三河武士の意地という観点からすれば、両人の行動は晩節を汚すものではないか、というのが福沢の非難の主旨で、勝はそれに対して、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」という有名な返事を書いてはねつけた。

私は、福沢という人も案外古いところのある人だった、というつもりでこの話をしはじめたのだったか、それとも「洋学先生」福沢の情熱の源泉が、実は封建武士道のなかにあったように、改革を推進するのはかえって意識されない旧い心情であることが多い、ということをいおうとしたのだったか、今ではもう忘れてしまった。

忘れられないのは、「瘠我慢の説」の冒頭の一行、「立国は私なり、公に非ざるなり」という名文句を口にしたとき、石原が眼を輝かせて、「そりゃいい言葉だな。もう一度いってくれ」と要求したことである。

私がくり返すと、石原は、「立国は私なり、か。それからなんだって? そうそう、公に非ざるなり、か。ようしわかったぞ。なあ江藤、こりゃいい言葉だなあ」と大満足で幾度もくりかえした。

そのとき石原が酔っていたかどうかは確かではない。たぶん彼は、ヴェトナムで罹ったヴィールス性肝炎の病後で、酒のかわりに平野水かなにかを飲んでいたのではないかと思う。しかしいずれにせよ、石原の昂揚ぶりははなはだ印象的であった。