唯一の自己証明である肉体をひっさげて、名文句を生きている

石原はこういうとき、自己流に変形した言葉を生きはじめているのである。

これはもちろん学者や読書家の言葉に対する態度ではない。詩人の前では、言葉は記号から生きたなにものかに変貌するにちがいない。しかしそのときは詩人が言葉のなかに生きている。

作家もふつうはこういう言葉に対する態度をとり得ないはずである。作家と言葉とのあいだには、通常もう少し厳格でもう少し恣意的な処理の利かない関係がある。

石原の場合は、一見行動家の言葉へのかかわりかたに似ているが、彼はいわば、まずサッカーのボールのような名文句をすくいあげ、その反作用で行動を開始する。そこのところがただの行動家とちがうのである。

ボールは前後左右にはずみつづけ、あたかも彼をからめとるかに見え、彼もまたからめとられるかに見えるが、よく見ると石原の強靭な肉体の大部分はボールの軌跡の外側にのこっている。彼の口から「立国は私なり、公に非ざるなり」や、「作家は歩兵で批評家は砲兵だ」が発音されると、一種名状しがたいなまなましさが感じられる所以である。

つまりこの場合、名文句そのものの力に加えて、言葉そのものには決して内在していないある体臭のごときものがただようのである。

これは美しい女優がなまめいたせりふを口にしたような場合とはちがう。石原は言葉の職人になり切れぬように、言葉の道具にもなり切れない。彼はつねにひとつの存在であろうとする。ひとつの存在であろうとする石原慎太郎が、その唯一の自己証明である肉体をひっさげて、名文句を生きている。

これはまことに特異な言葉とのかかわりかたである。ある種の奇妙な天才がなければよくなし得ない破格な生き方である。