愉快になって口笛でも吹きたくなった

私が複雑な感情を味わったのは、だからそういう理由からではない。私はやはり石原を作家にしておきたかったのである。彼の肉体が老いるにしたがって、あの無意識の部分を少しずつ言葉がおおいはじめ、ついに石原という奇妙な天才が、まったく言葉の世界に表現しつくされる日を見たいような気がしていたのである。

しかし彼はやはり「肉体」で勝負することに賭けた。「言葉」ではなしに。

35歳の石原慎太郎はすでに青年作家ではない。しかし35歳の国会議員は疑いもなく青年政治家である。石原は彼にとっての基本的な問題を解決することなしに、同じパターンを二度くり返す道に賭けたのである。私は石原に手紙を書いて、選挙の手つだいはなにもしないが悪く思うな、一票入れるだけでかんべんしろといってやった。

選挙になると決まって党か人かという議論がおこる。私はこの議論の偽善的なところがきらいである。

中学生時代からよく知っている友人が立候補し、私はその人間を信用している。それならそれ以上のどんな基準によって判断しろというのか。作家のままにしておきたかったのは私の勝手であり、政治家になろうとしているのは石原の意志である。

この際その素志貫徹のために一票を投じるのは友達甲斐のうちである。「大義親ヲ滅ス」ということを私は軽々には信じない。福沢が「瘠我慢の説」で説いているように、国家を組織させるものが私情なら投票もまた私情をつらぬくべきであろう。

選挙運動となるとこれは私の趣味にあわない。趣味にあわぬことをあえてひきうける必要はないが、私は彼に投票し、かつ身辺の者たちに投票を勧誘するのに少しもやぶさかではなかった。

まだ公示になる前だったが、あるとき石原から電話がかかった。「どうだ景気は」とたずねると、「あまりよくない、ボーダーラインらしい」という。たしか3月頃である。そして、「おい江藤、おれはくたびれたよ。なにしろ官僚が強いからなあ」と嘆息した。

出たばかりでくたびれるやつがあるか、と私はいいかけたが、このときも政治の話はしなかった。疲れているときのくせで、石原はひどく神経質になっており、例のまぶたをピクピクさせる表情を電話の向こうでくりかえしているのが見えるようであった。

彼がどんな運動をしているのかは、まったく知らなかった。そのうちに前景気が上り、最高点確実というような情報が新聞に出はじめ、蓋をあけてみたらなるほど石原は三百何万票だかの空前の得票を実現した。そのうちに自分の一票がはいっていると感じるのは、悪くなかった。

石原の横顔が表紙になっている「週刊朝日」を見ると、こんな記事が出ていた。

《……こんなふうだから、会場の空気は、白んだり、緊張したりの連続だ。しかし、聴衆は、気がついてみると、石原氏の機関銃のような早口の弁舌に、とりこになっている――という寸法。話題も、ケネディ、ヒッピー、核問題、福沢諭吉……と多彩。

「福沢諭吉は、いいことをいってる。『立国とは公にあらず、私なり』と。この言葉を一つ、きょうはおぼえてかえってほしい」

かれは、大学の教授のごとく、啓蒙家のごとく、そして憂国の志士のごとくしゃべりまくる。それでいて、計算もあり、ユーモアもある》

「この言葉を一つ、きょうはおぼえてかえってほしい」か、と私はなんとなく愉快になって口笛でも吹きたくなった。

※本稿は、「知られざる石原慎太郎」(『婦人公論』1968年9月号)の一部を再編集したものです。『石原慎太郎・大江健三郎』(中公文庫)より。


『石原慎太郎・大江健三郎』(著:江藤淳/中公文庫)

1950年代の鮮烈なデビューから”怒れる若者たち”の時期を経て、それぞれの1968年へ――。同世代を代表する批評家が、盟友・石原慎太郎と好敵手・大江健三郎と向き合い、その文学と人間を論じた批評・エッセイを一冊にした文庫オリジナル作品集。