秘湯マニアの温泉療法専門医が教える-心と体に効く温泉

●小天温泉(熊本県玉名市天水町)
夏目漱石『草枕』

「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」

明治39年に発表された夏目漱石の小説『草枕』の冒頭文である。

小天温泉は『草枕』の舞台になった、熊本市の北西、玉名市天水町にある温泉である。

日露戦争の頃、画工の主人公は山中の温泉宿に宿泊する。そこで出戻り娘の那美と出会い、自分の絵を描いてほしいと頼まれる。「今まで見た女のうちでもっとも美しい所作をする女」と感じつつも「ただ少したりないところがある。それが出ないところをかくと、惜しいですよ」と言って那美の要求を拒否する。那美の従兄弟の満州出兵の際に、従兄弟が乗った列車に偶然窓から別れた夫が首を出した。顔を見合わせた後の茫然とした那美の顔に、今だかつて見たことのない「憐れ」が一面に浮いて出た。「それだ! それだ! それがでれば画になりますよ」と那美の肩を叩きながら小声でささやく。

このような背景を中心に漱石の芸術論や文化論が展開する。

第五高等中学校の英語教師として熊本に赴任した夏目漱石は明治30年の大みそか、熊本から峠の茶屋を越えて小天に向かい翌31年の正月、前田案山子別邸の離れに滞在する。『草枕』の作中で前田案山子別邸は「那古井の宿」、前田家は「志保田家」として登場する。小説のモデル志保田の姫様・那美は案山子の次女・前田卓(つな)と言われている。

小天温泉の発見は明治初期と言われ、古くから「湯の浦」という地名もある。漱石が訪れた頃には5、6軒の温泉宿があったが、現在は「田尻温泉」を「那古井温泉」と改名した一軒宿の「那古井館」だけが営業している。前田家別邸のすぐ近くには、「草枕浪漫」のビデオ上映や遺品・資料などが展示公開されている白壁造りの「草枕交流館」がある。