●熱海温泉(静岡県熱海市)
尾崎紅葉『金色夜叉』

間(はざま)貫一が、「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」という決別の名せりふを吐けば、「♪熱海の海岸 散歩する 貫一お宮の 二人連れ 共に歩むも 今日限り 共に語るも 今日限り」と東海林太郎・松島詩子が歌う(大正7年)。尾崎紅葉の『金色夜叉』のこのシーンは、静岡県の熱海温泉が舞台である。

両親を亡くした間貫一は、亡き父に恩を受けた鴫沢隆三家に寄寓していた。鴫沢夫妻は貫一が高等中学校を卒業したら娘の宮との結婚を考えていたが、両親は資産家の跡継ぎの富山唯継に嫁がせると決心。それに激怒した貫一は、熱海の海岸で宮を問い詰め、悲痛な決別の言葉を吐き、下駄履きの足で宮を蹴りとばす。国道135号線の海岸沿いに貫一がお宮を蹴りとばす「貫一お宮之像」がある。原作では次のとおり。

「吁(あゝ)、宮(みい)さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」

貴一お宮之像

明治30年から読売新聞に連載されたこの小説は爆発的な人気を呼んだが、紅葉の病死によって未完に終わる。紅葉35歳。死因は胃がんであった。

熱海温泉は約1500年前の仁賢天皇の時代、海中から熱湯が湧き出し、魚介類が爛れ死ぬのを近郷の者が発見し、以来「熱い海」であることから「熱海」と名付けられた。天平宝字年間(757~765)には箱根権現の万巻上人が、「熱い海」のために不漁に苦しむ漁民たちを救済すべく、祈願により泉脈を海中から現在の山里に移したという伝説が残されている。また、江戸時代には徳川家康が来湯し、以来徳川家御用達の名湯として、四代将軍家綱以降は熱海の温泉を「お汲み湯」として江戸城に献上している。

明治以降はベストセラーになった『金色夜叉』により、熱海の名は全国的に知れわたり、多くの観光客が訪れ、白浜温泉、別府温泉とともに「日本三大温泉」にまで発展した。