また、旅に出られなくても、温泉の豆知識を得ることで、湯けむりに思を馳せ、癒しを感じることも…。消化器外科医・温泉療法専門医であり、海外も含め200カ所以上の温泉を巡ってきた著者が勧める、温泉の世界。安心して、どっぷりと浸かってみてください。
※本記事は『秘湯マニアの温泉療法専門医が教える 心と体に効く温泉』(佐々木政一、中央新書ラクレ)の解説を再構成しています
前回「文豪が愛した名湯。夏目漱石は道後温泉を愛し『坊ちゃん』を執筆。水上勉の『越前竹人形』の舞台は芦原温泉」はこちら
乙羽信子、長門裕之の主演で映画化
温泉地(以下温泉と表記)で執筆した作家、温泉で療養を行った文豪、旅と酒を愛し温泉を訪ねた歌人・詩人等、日本特有の温泉風土を舞台背景にして、書き上げられた文学作品はとても多い。これは、世界を見渡しても珍しい。
日本各地の温泉を舞台にした文学作品をたっぷりと紹介しよう。文学と温泉の世界にどっぷりと浸かってみるのもいいものだ。
●鉛温泉(岩手県花巻市鉛)
田宮虎彦『銀心中(しろかねしんじゅう)』
戦争に行った理髪師の夫の戦死の公報が届き(実際には3年後に生きて復員)、住み込みで修業をしていた夫の甥と深い仲になった女性の自責の念と、愛と義理の板挟みに苦しむ甥の悲しい結末を描いた、田宮虎彦の『銀心中』の舞台になった温泉である。岩手県花巻市の鉛温泉の一軒宿「藤三旅館」の主人は、田宮虎彦滞在の2年後に発表されたこの作品を読み、温泉の由来が同じであることなどから、先年の客が小説家であったことを初めて知ったという。
JR東北本線花巻駅から豊沢川に沿って40分ばかりさかのぼると、高倉山の山容に包まれた鉛温泉がある。
「藤三旅館」の開業は天保12年(1841)で、現在の建物は昭和16年建造の総ケヤキ造りの重厚な3階建てで、窓を開ければ豊沢川の渓谷が広がり、野鳥のさえずりや清流のせせらぎが耳に優しい。
ここの温泉の売りは4カ所ある浴槽のうち、建屋の地下にある天然の岩をくり抜いた小判型の湯船に立ちながら入浴し、底の岩間から温泉がコンコンと湧くその名も「白猿の湯」である。深さは平均125センチもあり、日本一深い自噴天然岩風呂で、背の低い人なら顔まで浸かってしまいそうな深さである。また、「桂の湯」には内湯と露天風呂が併設されており、浴槽の横を流れる豊沢川の清流を楽しみながら入浴できる。
小説は昭和31年に、乙羽信子、長門裕之の主演で映画化。また、宮沢賢治の童話『なめとこ山の熊』にも鉛温泉が登場する。