「書く」ことで「救われる」

最近になって、「不妊治療を受けている患者にメンタルケアが必要」という記事をよく目にします。新聞の生活面に、そうした記事が大きく取り上げられることはひじょうに喜ばしいことであり、いつでも体験談を話すのに……と欄外に記されたアドレスを含めて記事を切り抜いているところです。

「こうして私もやっと涙を流すことなく不妊治療の経験を書けたり話せたりできるようになりました」と言いたいところですが、実は必ずしもそうではありません。

先日は、流産や死産をした赤ちゃんのために小さな棺を手作りする活動をしているという女性の記事を読んで、長時間涙が止まりませんでした。

私の場合、受精卵が着床に至ることがなかなかなかったのですが、心音を耳にしたり、エコーで小さな全身を確認したりすることも何度かはありました。その子たちの姿を確認するとき、彼らはいつもビーカーの中に入っていて、そこで《お別れ》でした。
とても悲しい別れでした。

(写真提供:写真AC)

こうして書きながらも、「こんなことを書いて何になるのだろう」と自己嫌悪に陥ることもあります。これも以前書かせていただきましたが、物書きの大先輩から、「山田さん、子どもができてから書きなさい」「辛かった不妊治療の経験なんて書いても、子どもが居る読者を優越感に浸らせるだけよ」と叱られたこともありました。仰っていることは理解できます。そりゃあ、「10年、不妊治療をして、やっと子どもに会えました」という話のほうがいいに決まっています。

ではなぜ、できなかった話を書いているのか。それは、10年にわたった不妊治療の経験を公にせず、封印することは、物書きの端くれとして許されないことだと思っている私がずっと居たからです。物書きの一人として「書く」ことで「救われる」ことも知っていました。

ですが、こと不妊治療については、書き始めると結局、涙が溢れてきてしまって、「救われる」ことには全くなりませんでした。書籍化や「小説ならば」と勧めてくれた何人もの編集者やライターさんを裏切り続けました。