今朝も裏山と広々とした空を眺めていると、階下の居間でちーんと鈴を打つ音がした。娘が父親の位牌に朝のお茶を供えたところだ。やがて、いつものように私のベッドへもお茶と新聞が届く。
ベッドの上で熱いお茶を飲み新聞など広げていると、下の台所からコトコトと包丁の音がして、香ばしい味噌の匂いが漂ってくる。やがて呼ばれて食堂へ降りていくと何品かの皿が並べられ、娘は料理の写真を撮っている。汁椀からも飯碗からも湯気が上っているというのに、食卓の椅子に座るのも待たされ、朝からいらいらしてしまう。
この写真はSNSとかいう不特定多数の掲示板にのるらしい。地方にいる昔の幼馴染から「たくさんのお料理完食しているのね。幸子完食と書いてあって、安心しているわよ」などと電話がくる。生活の細部が公開されるのは気持ちのいいものではないが、これも生活の記録、仕事につながるといわれれば仕方がない。
五つの食器棚に残った古い器のゆくえ
私は一人でいて退屈するということはほとんどない。ベッドに寝転んで本を読むこともラジオで音楽を聴くことも好きな時間だが、うちにこもってばかりいては足が衰える。一日に一回くらいは散歩に出た方が健康にいいと娘がいうので、歩いて十分くらいの海沿いのカフェに毎日行くことにした。
夕焼けの海は美しい。私のうちは山の中程にあるので、家の前は上りの急坂である。タクシーの乗り降りも一騒動。遠方から訪ねてくれた友人がタクシーを降りるなり転んで、「こんな不便な家は早く売り払って、マンションに移りなさいよ。年寄り向きではない」といった。
確かに、散歩の度、坂道は娘に付き添ってもらう。腰の辺りをグッと握ってもらって、そろそろと坂を降りる時、夫のいった言葉を思い出す。
「この坂は歳を取ったらいい足の訓練になるよ」
何を能天気なことをいっていたのだろう。歳を取った今、この坂があることで一人で外出もできないではないか。同時に思い出す。
「少しばかりの金を子供に残していたらロクなことはない。きれいに使って死にましょう」
その言葉に乗せられて、決して少なくはなかった夫の給料を私はきれいに使ってしまった。