かつて私は旅をして古い器を買いに行くという婦人雑誌の連載を持っていた。地方の小さな街の骨董屋さんで古い器を買い、それに自分の料理を盛って写真を撮る。娘のSNSを嫌っていたが、考えてみれば私も同じようなことをしていたわけだ。
器は日常使いのものと決めていたが、店の奥にもう少し上等な器もあった。仕事とは別に店主が解説しながら見せてくれると、つい買ってしまうことも多かった。それが溜まって、今でもそれは五つの食器棚に残っている。
あれから何十年もたって、私の残り時間も少なくなった。買い集めた器も骨董屋さんを呼んで処分しておこうかと考えた。娘にこの話をすると、顔色を変えて反対された。どの器にも思い出があって、手放したくないというのだ。あまりの真剣さに驚いた。
これらの器たちは私にとっての裏山の木々と同じかもしれない。器だけではなく、広くて寒い家も古い家具も娘にとってはなつかしい大切な時間のようだ。
これはうれしい発見だった。料理も器の選び方も特別に教えたつもりもなかったが、大切なものとして残っている。娘との生活は、これまでの暮らしを渡し直すことでもあったのだろうか。