自分が決して一人ではなく、他者とのつながりの中に生きている事実を知ることが出発点(イラスト提供:イラストAC)

「子どもが悪い」は親子とも孤独になる

人を殺める事件があれば、私はあのような極悪非道な振る舞いは決してしないと思い、犯人に憤りを覚えます。しかし、同じ状況に置かれた時に、自分はそんなことはしないと言い切れるでしょうか。

あらゆる争いは、自分と他者を分別することに起因します。分別しないためにできることは、親子関係についていえば、子どもの姿が親の理想とは違っていても、問題行動を繰り返す悪い子どもであっても、善悪を超えて子どもを受け入れなければなりません。

自分も同じ状況に置かれた時に、親に暴言を吐くかもしれない、人を殺めることがあるかもしれないと考えることも必要です。このことに思い至れば、自分を安全圏に置いて、人を非難することがなくなります。

さらに、相手が問題を起こした時、そのきっかけを自分が作ったのではないかと顧みなければなりません。子どもが急に問題行動を始めるわけではありません。長い間、「親の期待に添うよい子であれ」という圧力をかけたことが、子どもを追い詰め、反抗を招いたのかもしれません。

「子どもが悪いのだ」と断罪している間は、関係修復の手がかりを得ることはできません。子どもに理想を押しつけないとか、子どもの課題に口出しをしないとか、自分にも取り組める課題があるとわかった時、関係は変わり始めます。

子どもとて、親が憎いわけではありません。親から懸命に自立しようとしても、「親は自分を理解してくれない」と思うと孤独になります。子どもに背かれた親も孤独になります。留意しなければならないのは、何の葛藤もなく自分たちはいい親子だと思っていると、かえってよい関係を築けない場合があるということです。本当にいいたいことを、いえていないかもしれないからです。