『孤独の哲学 「生きる勇気」を持つために』(著:岸見一郎/中公新書ラクレ)

誰かを嫌いになったとき、つながりから切り離される

その際、自分が決して一人ではなく、他者とのつながりの中に生きている事実を知ることが出発点です。アウレリウスは、次のようにいっています。

「枝は隣の枝から切り離されたら、木全体からも切り離されないわけにはいかない。まさにそのように、人間も一人の人間から引き離されたら、共同体全体から離脱することになる」 (『自省録』)

「共同体」というのは、人とのつながりという意味です。続けて、次のようにいっています。

「ところで、枝は(枝とは)別の者が切り離すが、人間は隣人を憎み背を向けることで、自分で自分を隣人から分離する。しかし、同時に共同体からも自分を切り離してしまうことになるのを知らない」 (前掲書)

たった一人の前にいる相手に憎しみを持つだけでも、人とのつながりから自分を切り離してしまうことになるというのです。憎むところまでいかなくても、誰かしらを嫌いだと思う人はいるでしょう。

ある日、病院で診察の順番を待っていたら、待合室に大きな声が響きました。一人の女性が高齢の親を怒鳴りつけていたのです。車椅子に乗っていた親は言い返すことなく、ひたすら子どもの暴言に耐えているように見えました。

この女性は親を憎み、アウレリウスの言葉を使うと、親を自分から分離しようとしたのであり、仏教の言葉を使うならば親を「分別」しようとしていたのです。

私は、この二人を見て、自分が父親の介護をしていた時、何度も受診した経験を思い出しました。私も父を車椅子にすわらせ、長い時間、診察の順番が回ってくるのを待ちました。ところが、もうすぐ診察室に呼ばれる直前になって、父がトイレに行きたいと言い出して困ったことが度々ありました。

しかし、と私は思いました。そんな時でも私は怒鳴ったりしなかった、と。そう思った時、私は「自分は正しい」と思い、親にひどい言葉を投げかけた女性は間違っていると思ったのです。その時、私は自分とその女性を分別したのです。

ところが、同じ状況に置かれた時、親に暴言を決して吐かないと断言できる人がいるでしょうか。激しい言葉を投げかけなくても、親に苛立ちを感じない人はいるでしょうか。