これが孤独になるということ
これが孤独になるということであり、三木の言葉を使えば、知性に属する孤独です。この孤独を知っている人は、人の中に生き、その人との関係で何があっても心穏やかでいることができます。
アウレリウスにとって、十八歳で次期皇帝に指名されてからの人生は不本意なものでした。皇帝の地位も、宮廷での華やかな暮らしも望んでいなかったのです。彼が求めていたのは、少年時代から深く傾倒していた哲学でした。
「もしもお前に義母と生母が共にいるならば、義母に仕えながら、それでも生母の元に絶え間なく帰り行くことになるだろう。それが今のお前には宮廷と哲学である。哲学にしばしば戻っていき、そこに身を寄せ、休息せよ。それによって、宮廷でのこともお前に我慢できるものに思われ、お前もその中にあって我慢できる者に(他の人に)見えるのだ」 (『自省録』)
アウレリウスは、自らの内に引きこもれといっていますが、孤立することがいいといっているわけではありません。実際、彼は哲学者として生きたいと思っても、皇帝としても生きなければなりませんでした。
日々仕事に明けくれているばかりでは、自分を見失うことになります。どれほど過酷な状況でつらい仕事、不本意な仕事をしていても、支えとなるものが心の内にあれば、心の平静を取り戻すことができます。
これは「我慢すればいい」、あるいは「心の持ちようで何とかなる」という意味ではありません。社会の不正、理不尽には公憤としての怒りを持たなければならないことは先にも書きました。世間的な価値観に疑問を持っている人、他者からの不当な仕打ちに心傷つけられた人にとって必要なことは、手を拱いて何もしないのではなく、自分に何ができるかを考えることです。