74歳のとき訪れた、夫との永遠の別れ

1925(大正14)年、群馬県前橋市に生まれた小川さんは、23歳のとき、東京・神田で特殊印刷を家業とする一(はじめ)さんのもとに嫁いだ。

家は終戦後の焼け野原に建てたバラックで、8畳と3畳の2間と工場。そこで小川さん夫婦、義母、義妹、義弟の5人が暮らし、ほどなくして住み込みで働く若者たちも加わった。

多いときは別に借りた部屋に8人を住まわせ、小川さんは家業の手伝い、家族や従業員の食事の世話にと追われる毎日だった。

――特殊印刷というのは、金箔や銀箔を使う印刷法です。今でこそ機械で簡単に印刷できますけど、それまでの何十年はすべて職人の手作業。1枚仕上げて3円、4円の手間仕事ですから、とにかく働きました。盲腸で入院したときも、退院したその日に工場の夜作業に出たほどです。

そういう日々だったので、趣味を楽しむ余裕なんてありませんでした。家業は戦後40年あまり続けたものの、時代とともに機械化が急速に進んでね。うちは小さな工場でしたから、私が62歳のときに、見切りをつけて閉じることにしたのです。

改築を重ねてきた木造のわが家は耐震や防災の面で引っかかるということで、貸しビルに建て替えることに。一時的に茨城県へ引っ越し、住み慣れた神田に戻ったのが64歳。

これまで働きづめだった夫と海外旅行に出かけたり、新しい生活を楽しんでいましたが、私が74歳のときに夫は亡くなってしまいました。

日光旅行で写真を撮る面白さに目覚めたのは、夫のいない暮らしにようやく慣れ始めた頃のことです。