鈴木おさむが受け継ぎ、拡大した「ハイブリッド的手法」
さらに、鈴木おさむによる新たなテレビエンタメの開拓という意味では、『お願い!ランキング』(テレビ朝日系、2009年放送開始)での「食品メーカーのある一社の商品ランキング」がある。これも、鈴木が提案したものだった。
当時の民放においてはスポンサーへの配慮から商品を順位づけすることはためらわれがちだったが、これも現在では情報バラエティ番組の定番企画として定着している。
そうしたことの大きな時代背景としては、1990年代以降、テレビがますますジャンル横断的になったことがある。
それは、『欽ちゃんのどこまでやるの!』の萩本欽一などが先駆的におこなっていたものだが、報道、ドキュメンタリー、ドラマ、バラエティといったそれぞれのジャンルが自分たちの領分を守るのではなく、それぞれの境界を越えて融合させる手法が、この時期本格的に盛んになった。
典型的なのは、『電波少年』シリーズ(日本テレビ系、1992年放送開始)などのドキュメントバラエティである。「猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイク」のように、芸人が過酷な環境のなかで奮闘する様子をドキュメンタリー的手法で見せる企画が、1990年代以降、視聴者から支持されるようになった。
鈴木おさむは、そのようなハイブリッド的手法を受け継ぎ、さらに拡大した放送作家のひとりと言えるだろう。
※本稿は、『放送作家ほぼ全史―誰が日本のテレビを創ったのか』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
『放送作家ほぼ全史―誰が日本のテレビを創ったのか』(著:太田省一/星海社新書)
「青島幸男、秋元康、宮藤官九郎。この3人の共通点はなにか? そう聞かれて即座に答えが思い浮かぶひとはどれくらいいるだろうか? 答えは、みんな放送作家だったことである。青島幸男はタレント・政治家、秋元は作詞家・プロデューサー、宮藤は脚本家としてそれぞれひとつの時代をつくった人たちだが、それ以前に3人ともが放送作家であった」(「はじめに」より)。
テレビの裏方として企画・構成を考えたり台本を書いたり、あるいは脚本家・作詞家・小説家になったり…。テレビやメディアで活躍する「放送作家」という不思議な存在を日本のメディア文化、エンタメ、戦後日本社会との関係からとらえ直す画期的な一冊。