人間の「器」を映す「中腰力」
春日 ぼくは以前から、精神における「中腰力」ということの大切さを言っているんです。それは中腰のハンパな状態で耐えられるかどうかっていうのが勝負どころ、といったことなんですけど。でも白黒をつけるだけなら、そういう中腰の曖昧な状態なんていうのは関係ないってことになる。
あと、世間ではよく「頑張る」なんて言ったりしますけど、頑張るということ自体は実は大変でもなんでもない。どう頑張ればいいのかわからない、あるいはこの頑張りに意味があるのかどうかという部分がはっきりしないことのほうがはるかに多いわけだから。
たとえば、本のようなものをつくるということは、うまくいく保証なんてぜんぜんないですよね。経験と、たぶんうまくいくだろう、といったある種の希望とか楽天性、そのぐらいしか裏付けがなくて。だけどできる限りやるしかない、という、だいたいそうした状況なわけじゃないですか。
それでもやるぜという姿勢、耐えきれるかどうかっていうところが実は勝負どころ。言い換えると人間の器(うつわ)みたいなところであって。もうそういうことで失敗だらけでやっていく、というのが人生だと自分では思っているんだけど。
だいたい、白黒つけるって言いたがるだけの人は弱いですよ。だって、いちばん単純な部分で止まってるんだもん。そこに至るまでのハンパな状態の辛さ、そこでどう耐えるかっていうことをわかっていないから。自分は悲劇の人です、みたいな感じになっている人はたいがいその中腰で耐えるってところができなくて、それで被害者的になってしまっている気がしますね。