「野球界にいっぺん、革命を起こしてみろよ」

1976年に阪神から野村監督率いる南海にトレードされた江夏投手は、移籍1年目は6勝12敗の成績で、選手生活としてはどん底だったと語っている。

当時、野村と江夏は同じマンションに住んでいて、試合から帰った後、野村の部屋で夜明けまで野球談義をするのが日課だった。ある晩、野村が「なあ豊、野球界にいっぺん、革命を起こしてみろよ」と言った。

これからの野球は変わり、投手も先発、リリーフ(救援)というように分業制になってくる。そのリリーフ投手の先駆者にならないかという呼びかけだった。

2か月、3か月と説得は続いた。江夏はそれまで、先発完投が投手として当たり前だと考えていた。「救援降格は自分にとって屈辱以外の何物でもない。だが革命ならやってみる価値はあるかもしれない」と受け取った。

また、投手人生の盛りを過ぎた自分は120、130球を投げて完投するのはもう無理だが、30球、40球なら生きた球を投げられる自信がある、自分には向いているかもしれない、と最後には納得した。

江夏はリリーフ専門に転向して最優秀救援投手のタイトルを獲得するとともに、その後10年近くリリーフ投手として活躍した。移籍した広島では1979年から80年の2年連続日本一にも大きく貢献している。

「投手の分業時代が来る」とにらみ、自分をリリーフに抜擢した野村監督の先見の明に感心したという。

テレビ番組中に野村監督のことを問われて「恩人。大恩人としか言えない」と江夏は語っていた。