内部抗争を勝ち抜いていく北条時政・義時

将軍と有力御家人による円滑な政権運営のために採用された合議制だったが、その内実は当初から波乱含みだった。

北条時政・義時と、より将軍頼家に近しい梶原景時・比企能員の間で権力抗争があったからだ。有力御家人を巻き込み、北条派対梶原・比企派の派閥対立に発展していたという見方もある。

そうした状況下で、北条氏は謀略によってライバルらを蹴落としていく。

頼朝が重用した梶原景時は、頼家が将軍を継承した同年に御家人66人の讒訴(ざんそ。誰かをおとしいれるための訴えのこと)によって失脚し、一族もろとも討ち死にする。その黒幕に北条時政がいたとする見解もあるが、その真相は定かではない。

図:将軍家・北条氏・比企氏の関係性(『歴史と人物7 面白すぎる!鎌倉・室町』より)

しかし、比企能員の暗殺は時政の陰謀と見て間違いないだろう。能員は時政追討を計画したとして、逆に時政に誘い出されて暗殺されるのだが、時政追討計画は濡れ衣だった可能性が高い。