実朝暗殺と承久の乱

建暦(けんりゃく)三年(1213)には和田義盛(わだよしもり)が義時に挑発されて挙兵し滅亡。義時は御家人を統率する侍所別当(さむらいどころべっとう)もかねて幕府の実権を掌握する。

一方、源実朝は北条氏の権勢におされながらも、将軍として訴訟の決裁権や重要事項の最終決定権を握っていた。だが、朝廷の影響力を排除したいという義時らの思いとは裏腹に、実朝は治天の君として朝廷に君臨する後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に心服し、和歌や蹴鞠など京の文化に耽溺した。

図:実朝と後鳥羽上皇の関係(『歴史と人物7 面白すぎる!鎌倉・室町』より)

さらに、御家人にも上皇への奉仕を推奨し、上皇の私的な軍事機関である「西面(さいめん)の武士」には在京御家人の多くが参加した。さらに実朝は官位の昇進を望み、上皇も実朝を統制下に置くためにその要求に積極的に応えた。

そして、父・頼朝を超えて右大臣となった翌年の建保(けんぽう)七(1219)年一月、鶴岡八幡宮での儀式の直後に、実朝は甥の公暁(くぎょう)に殺される。北条義時を黒幕とする説もあるが実否は不明だ。

実朝の死後、幕府と後鳥羽の関係は急速に悪化する。

地頭の更迭や内裏(だいり)再建費用の供出など、自身の要求をことごとく退ける幕府の態度に業を煮やした上皇は、京周辺の武士を招集。承久(じょうきゅう)三(1221)年、全国に北条義時追討の宣旨(せんじ)を発し、承久の乱が幕を開ける。