承久の乱は鎌倉方の圧勝に
最大の激戦は、北条泰時率いる幕府方の主力が向かった宇治川で繰り広げられた。
幕府方は緒戦から劣勢で、足利義氏(あしかがよしうじ)らが泰時の許可なく攻撃を始め、大量の矢を浴びて死傷者が続出する。
橋板を外された宇治橋を渡るのは不可能と見た泰時は、水練の得意な芝田兼義(しばたかねよし)に浅瀬を調べさせ、御家人たちに渡河を命じたが、多くの武士が流れに飲まれ戦わずして溺死した。
死を覚悟した泰時は「今こそ大将軍が死ぬ時だ」といい、嫡子の時氏(ときうじ)に川を渡って敵陣に入り討ち死にするよう命じたという。
その後、先陣を切った佐々木信綱(ささきのぶつな)と時氏がほぼ同時に川を渡りきると、他の御家人たちも続々と渡河に成功。
北条泰時と足利義氏も民家を壊して作った筏で対岸に渡り、各地で幕府方と京方の激戦が繰り広げられた。
形成は一転して幕府方の優勢となり、京方の大将軍である院近臣の源有雅(みなもとのありまさ)、高倉範茂(たかくらのりしげ)らは戦わずして敗走する。
瀬田や淀・芋洗(いもあらい)でも京方が相次いで敗北し、三浦胤義(みうらたねよし)や八田知尚(はったともひさ)、佐々木惟綱(これつな)など、鎌倉にゆかりのある京方武士が次々と倒れ、承久の乱は鎌倉方の圧勝に終わる。泰時が先頭を切って鎌倉を発ってから、わずか1カ月後のことであった。