義時追討の宣旨と北条政子の訴え
義時追討の宣旨が出たことに御家人たちは動揺したが、これをしずめたのが北条政子だった。御家人たちに向かって、幕府を草創した頼朝の恩を強調して結束を促し、一丸となって京方に立ち向かうよう訴えた。
そして大江広元(おおえひろもと)の提言により即時出兵が決まり、東海道・東山道・北陸道の三手に分かれ、19万騎の御家人が大挙して上洛を開始する。
上皇は当初、追討宣旨さえ出せばほとんどの武士が京方になびくと考えていた。
しかし雲霞のような大軍が近づいていることを知った上皇は大いに慌て、側近の藤原秀康(ふじわらのひでやす)を総大将として東海・東山道に派遣。美濃国(みののくに)・尾張国(おわりのくに)の国境付近で迎撃態勢を固めたが、戦力を分散したため京方は各個撃破される。
幕府軍は要衝の墨俣(すのまた)を突破して美濃に侵入すると、宇治と瀬田から京に迫った。