所を得る

私は母のようにはとてもいかない。しかし死後にものを残さないことで、残された家族に手間をかけさせまいとする気分は、日々強い。

人からもらった手紙、手書き原稿はあらかた焼いた。写真もどんどん捨てている。曾孫が「ひいおばあちゃんってどんな人だったの?」と聞いた時に、それに答える写真がほんとうは十枚もあればいいのである。

不思議なことだが、ものを手放す情熱の背後にあるのは、ものを充分に生かしたいという思いである。

時々おいしいものを贈り物としてもらう。台所の一隅に椅子があり、家人や秘書は届けられた贈り物をその上に置く。私はルールを作って、夕方までにはそれをきちんと分けるようにしている。

うちで頂くものは冷凍庫や冷蔵庫に、多すぎる分は秘書に持たせる。これをやらないと、贈り物は翌日まで包装も解かずに、そのままの姿で椅子の上に置かれたままになる。しかしすべてのものは、新しいうちに喜ぶ人の元に行くことがいいのである。それに椅子は物置台ではない、と私は言う。

人でもものでも、それが一番喜ばれる場所、生きる空間に行かせてやりたい。

家の片隅に、使われもせず喜ばれもせずに放置されるなんて悲しいことに、私は耐えられない。食べ物の場合ならなおさら、新しい状態のものを人にも届けておいしいと言ってほしい。

所を得る、という言葉がある。私は数学もできず、絵を描くことも不得手、音楽の耳もなかった。

しかし文章だけは書けたから、どうにか作家として書き続けて来られた。つまり所を得させてもらったのである。

※本稿は、『新装・改訂 身辺整理 わたしのやり方』(興陽館)の一部を再編集したものです。


新装・改訂 身辺整理 わたしのやり方』(著:曽野綾子/興陽館)

死ぬまでにものを減らさなければならない。モノ、お金、家、財産、何も残さないので跡形もなく消えたい。人間は死んだ後に何も残さないのが最高だから、モノ、お金、家、財産、すべてを減らして生きる。曽野綾子が贈る珠玉のエッセイ集。