整理魔になった理由
一般的に作家は、片づいていない書斎を持っているような印象を与えられている。
床の上まで乱雑に積み上げられた本は、その作家の読書量の凄まじさを思わせ、その光景が雑誌のグラビアなどで紹介されれば、一種の畏敬の念を読む人に与える。
しかもその乱雑な書斎の主が「どんなに散らかっていても、欲しい本はどこにあるかちゃんとわかっている」というような談話を口にすれば、いよいよその人の頭脳は神秘的に思えるものである。
私は探している本が、どの「山脈」のどこに埋もれているかてんで覚えられない。ただ左右どちらかのページのどの辺に出ていた、ということは、不思議とよく覚えている。これは私に限らず、資料を使う人たちに共通に備わっている一種独特の記憶であるようだ。
母は八十三歳で亡くなるずっと以前に脳軟化の兆候があり、それ以来少しずつ知的活動の量が落ちていた。
初め私は、きりきりと頭の働く母が生きながら死んで行き、同じ顔をした亡なきがら骸がそのまま生きているような奇妙な感覚に苦しんだが、次第にそれは母に与えられた最後の安らぎだと思うようになった。
人一倍心配性だった母は、もう少しも心配しなくなっていた。私が重大な眼の手術を受けた時も、気にかける気配は見せなかった。
そのあたりで私はやっと、母という偉大な主婦がいなくなったことも自覚したのだろう。何とかして自分一人で家を切り回して行かねばならなくなったのだと思うようになった。
家の整理から食事作りまで、すべての責任が私の肩にかかって来たのだが、それは五十歳に近くなってからだから、ほんとうは甘える時間は長過ぎたのである。
その頃から、私は突然、整理魔になった。