探し物がいやになって
初めにはっきりしておかねばならないのは、整理魔的性格になることは、完全な整理ができるようになるということではない。私は毎日のように原稿の締め切りを抱えていたので、原稿を書くことの方をいつも優先して考えていた。
と言うか、その頃から、仕事の優先順位ということをいつも考えるようになったのである。
すべてのことを同時に果たせるわけではない。だからどれから始めても、大切な順序で仕事を片づけるほかはない。
家事は私の家の中のこと。しかし引き受けた原稿を書くということは、社会的な責任のうちに入る。もっともこれさえこの世の中では比較的軽い責任で、私のエッセイや小説が雑誌の締め切りに間に合わなくても、誰もほとんど困らない。
ただ私の係の編集者が、やはり少しは編集長にモンクを言われて不愉快な思いをしなければならないだけである。そういうことはすべて知りながら私は一応、公的な約束が優先、家庭内のことは後回し、という順序を変えていなかった。
私は整理が、時間の短縮になるということをしみじみ自覚し始めていた。
資料にほしい本の探し物だって、最低限、その本の判型、つまり雑誌か文庫か新書かということさえ記憶していれば、文庫なら文庫の棚を探せば見つかり易い。
私は時々、腰痛が出ることもあった。すると身をかがめて本の山脈の中から、お目当ての一冊を掘り出すということも、次第に辛くなって来た。
さらに私は六十四歳と七十四歳で、両足首を一本ずつ折った。多分私の骨格上に生まれながらの設計ミスがあるのである。手術を受けて治っていても足首は固くなる。ますます探し物がいやになった。