戦後、近代になって、私たちの暮らしの中にまで、少しずつ外の仕事の価値観が入ってきたようです。私たちの幸福は暮らしにあるのですが、家の外にあると思うようになっていくのです。暮らしとは生きていくという動詞で、結果ではなく、その道中にあるものです。そんなこと誰でも知っていることですね。ところが、結果ばかりを求めるのは、お金に変わる「物」や計量できる「物」の価値ばかりに気がいくからです。

それって本当に大切なことですか。結果ばかりを求めると、効率と、自分に都合の良い合理性ばかりを気にして、目には見えない情緒(愛情や思いやり、想像力)などは無駄なこととされてしまうのです。そんな競争をしているから、私たちの得意な「感性」を失い始めているのです。一番大切なあなたの思いやりを踏み躙るなんて、いかにもったいないことか、失礼で、馬鹿なことです。

一汁一菜の味噌汁には何を入れてもいいと言ってきました。納豆でもいい、時には牛乳を溶いてもいい。入れたくないものはあっても、入れてはいけないものはありません。味噌汁は万能です。なのに、入れるものを自分で考えて思いつく、これさえできない人が多くなってきたようです。想像力の資源となる経験の機会を失っているのでしょうか。失敗のリスクを思うのでしょうか。

だれも見ていないのだから、試しにやってみればいいと思います。それが次につながる経験になるのです。家族は自分、自分は家族なら、なんの心配もいらないでしょう。これは一人暮らしでも同じことで、年をとっていても、死ぬまで、今の経験を生かすことができるのです。

料理をしたことがない人が多くなっていると思います。食べるものは、いくらでもあるので、買えば何も困らないと思われるかもしれません。でも買ってきたものと、家で作ったお料理は同じですか。同じではないでしょう。料理をして、食べるというシンプルな家庭料理の経験が、「定数の一」をもたせてくれるのです。

定数の一とは、物事を判断する基準です。基準がないと何も判断できないのです。

ですから、家で作ることには意味があるし、作る人だけでなく、食べる人にとっても、無限の経験が蓄積されていきます。その無限の経験から、あらゆる経験のマップができていきます。食べる以前に、見ただけでわかるという人間の予測、想像力が生まれるのです。

その経験がなければ、あるいは、まったく必要ないと考えるなら、その人間は何もわからない。人間はまっさらの脳を持って生まれてくるのです。経験なしには、何も考えられない、判断できないのです。料理しても、食材に火が通っているかどうかさえ判断できないということです。それでは安心して食べられるものはできない。料理は命と関わることですから、いつか「家庭料理禁止」なんてことになる可能性がないとは言えません。

知っているべきは、思い出してほしいのは、そもそも私たちは料理に、おいしさを優先して求めてきたのではないということです。だから、「和食とは何もしないことを最善とする」のです。きれいにする、きちんと火を通すことだけすればいいのです。野菜なら茹でてアクを抜く。アクを抜くことは毒素を抜いて食べられるようにすることです。「きれい」というのは、あの人はきれいな仕事をするというように、嘘偽りのない真実であること、悪意のない善良であること、そして美しいことという、人間にとって大切な真善美を、日本語では、「きれい」という一つの言葉で表すのです。

「きれい」とは正しさを表しています。「きれい」は、美意識でもあり、生き方にもなるんですね。きれいなものは、安心して食べられるもの、そしてきれいなものはおいしいものです。きれいにすれば、おいしさも栄養の後からついてくるのです。どうぞ、きれいに整えてください。