明るくしっかり者の母のことを「おかしい」と感じ始めたのは、2012年の春でした(写真:『ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~』《全国順次公開中》(c)2022「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえり お母さん~」製作委員会)

かなり遅くに見合い結婚をした2人

1920(大正9)年生まれの父・良則は英語が好きで、本当は旧制三高(現・京都大学)で言語学がやりたかったそうです。でも実父が早くに亡くなって妹2人の面倒をみなければならなかったために、その夢を諦めました。

さらに、太平洋戦争が始まり、召集。陸軍で炊事洗濯を叩き込まれたので、「わしと同じくらいの年の男は、やろうと思えば家事はできるんじゃ」ということなのです。

戦後は地元の食品会社に勤めて、定年まで経理一筋。再雇用の誘いも受けずにすっぱり辞めて。定年後は「わしゃ語学をやる」と、ラジオの語学講座を聞いていました。

母の文子は1929(昭和4)年生まれ。やはり戦後すぐに父親を亡くし、家族を養うために簿記を習って会計事務所で働いていました。表現することに興味のあった母は、もし時代が違ったら何かものを作る人になっていたでしょうね。父38歳、母30歳という、当時にしてはかなり遅くに見合い結婚をした2人。2年後に私が誕生します。

自分たちの経験からか、「好きなことをしなさい」というのが両親の唯一の教育方針。広島を出て東京の大学に進学したことも、その後の進路も、反対されたことは一度もありません。

私は大学卒業後、森永製菓に入り、社内コピーライターになりました。ところが入社した年に、あの「グリコ・森永事件」が起きたのです。広告の仕事はすべてストップ。街に出ればマスコミから「かわいそうな新人OL」として無神経な取材攻勢にさらされ……。

でも、ある新聞記者の女性だけが「一人の人間」として話を聞いてくれて、こんな仕事っていいなと感じたのです。それで24歳の時に映像制作会社へ転職し、テレビのドキュメンタリー番組を手がけるようになりました。