目撃した光景を話すことができなかった

抑留生活から解放され、母と帰国。戦後40年くらいたった頃のこと。女友達との旅行中に立ち寄ったスナックで、軍歌ばかり唄っている男性がいた。理由をたずねると、「自分は軍人だった。生きて帰れなかった仲間を思うと軍歌しか唄えない」と話してくれた。

「私はサイパン島からの引き揚げ者です」と伝えると、兵士でも生きて帰れないとされた場所からどうやって帰れたのか、と信じられない様子。彼も兵士としてサイパン島にいたのだ。

「16歳という若さで戦地に送られ、飢えと渇きに苦しんだ。死にゆく先輩から、『自分の肉を食べて生きて日本に帰れ』と言われて、人肉を食べて、いまここにいるのです」。妻や子どもにも話していないと言う。私は、日本兵が赤ちゃんにしていたことを話すのをやめた。

忘れられない記憶だが、誰にも話したことはない。戦争の話を嫌がる人もいる。でもこの年になって考えが変わり、今回初めて書きとめた。

常々みんなより長生きしているのだからと思ってきたし、がんと診断された際もとくに落ち込むことなく明るい私を見て、医者が驚いていた。

島で別れた赤ちゃんや子どもたちは、いまどこで何をしているだろう。きっとアメリカか日本のどこかで生きている、と思っている。


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