友人、仲間、そして親友。女ともだちは皆愛おしいけれども、この年齢になると、悲しい別れがある。何でも話し、相談してきた友人は、とりわけ特別な人たち、つまり親友だ。親しい分、傷付け合ったこともあるし、疎遠になった時期もある。だけど、彼女たちは私の傷を知っているし、私も彼女たちの傷を知っている。その意味で大事な人たちだったのに、皆、私を置いて逝ってしまった。
Yさんは、私がシナリオ教室に通っている時に知り合った。私はまだ20代後半。彼女は私より3歳年上の、映画や小説が好きな頭のいい人だった。最初に会った時、白いエナメルのコートに白いブーツを履いていた。こんなお洒落な人がいるのか、とそのカッコよさに痺れたものである。
料理も編み物も何でも玄人はだしでできたし、物知りで読書家だから、私はいろんなことを教わった。小説や映画、音楽のことばかりでなく、香水や花の種類、着物の見立て。ローズ・ギャラリーで、一本ずつ色の違うバラを買ってプレゼントしてくれたりもした。何も知らない私に、彼女は厭味なくいろんな世界を教えてくれる先生だったのだ。何かの決断が必要な時に、彼女に相談すると的確な答えが返ってきたものだ。
とても残念なことに、四年前に彼女はこの世を去った。私が彼女の亡骸の両脚を抱えてお棺に入れたが、羽根のように軽かった。
今でも、Yさんが生きていたら何と言っただろう、と思うことがたくさんある。誰にも言えないことを相談していたから、彼女は私の分身でもあった。気の強い私に辟易したこともあっただろうに、寛大で素敵な人だった。彼女の死とともに、私の半分も消えてなくなったような気がする。
そして、もう一人の私の分身はMさんだ。Mさんは、仕事で知り合った優秀なライターだった。彼女は昨年、緩和ケア病棟に入ったきり、コロナ禍のせいで会えなくなった。電話も通じなくなって心配していたら、ひと月後、弟さんから、亡くなったというショートメールが来た。電話が通じなくなってから一週間後に亡くなったという。彼女も私のことをすべて知っていた親友である。YさんとMさんが亡くなって、私の半生は喪われたと寂しく思う日々である。
友人も仲間も、皆大事な人たちだが、親友だけがいなくなってしまった。ということは、私も誰かの親友ではなくなった、ということだろう。誰かの親友になりたいと願う、今日この頃だ。