独特な「日本らしさ」なのかもしれない

どうしても実施しなきゃいけないのであれば、その理由を民衆にわかるように説明してもらいたい。経済的な理由であれ何であれ、説明次第では国民も「ああ、それなら仕方ない。やるしかない」と思う場合だってあるわけです。

『歩きながら考える』(著:ヤマザキマリ/中公新書ラクレ)

にもかかわらずただ一方的に「何が何でも」と無茶を押して、根拠も有耶無耶(うやむや)なままに突き進む。

実はこうした社会と組織の動向はある意味で日本の特徴であり、それが良いとか悪いとかということではなく、独特な「日本らしさ」なのかもしれないと私は捉えています。

国民もその進め方に馴染んでいるし、具体性を求めない。「何だかわからないけど、そうらしいよ」という状況であっても、日本という国家はそれで統制が保たれてきた。

事実、開催前には大多数が強く反発し、政府の対応を非難していましたが、開催後も反対意見を声高に言っていたのは、ある程度西洋化した認識をもつ人たちに限られていたように思います。

その他の人々は「アスリート、頑張れ!」と、テレビ中継の前でエールを送ったり、メダリストの笑顔を見て感動の涙を流していたのではないでしょうか。

「始めてしまえば大丈夫」という政府の目論(もくろみ)通りに国民が手玉に取られた顛末には釈然とはしませんが、「オリンピック開催すべし」という一つの倫理が強硬に発動されて、人々は流され、社会が統括されるというのは、人間の現象としては別に不思議なことでも何でもありません。

そういった意味で、オリンピックというイベントはつくづく、思考停止する人々の怠惰性をうまく利用するものだなと思います。