「毎日夕方になると、どこの家からも大根を切るトントントンという音が一斉に聞こえるの。お米が足りませんでしたから、大根を混ぜて炊くのです」

粟とか稗を混ぜてかさを増やす

八戸でも、さすがに戦争の最後の頃は、食べるものが不足しました。食料切符とか衣料切符とか、すべて配給制。でも、切符はあってもモノはないのよ。つまり、空手形。

毎日夕方になると、どこの家からも大根を切るトントントンという音が一斉に聞こえるの。お米が足りませんでしたから、大根を混ぜて炊くのです。でも大根飯はまだ良いほう。粟とか稗を混ぜてかさを増やすのよ。戦争になってからはどこの家庭でもそう。手の甲や足の裏が黄色くなるくらい、かぼちゃを食べました。

都会と違って、細々とでもなにか食べるものはありましたから、母はいろいろ工夫して、おいしいものを作っていました。すいとんも、ただ小麦粉を練るだけじゃないの。よくよく練って寝かしたものを手で引っ張って、摘む。「ひっつみ」っていうのよ。それは鰯の焼き干しのおだしでいただくの。とてもおいしかったのよ。

終戦間近になると、新聞には良いことばっかり書いてあって、とにかく頑張りましょうというばかり。「欲しがりません勝つまでは」という標語ができて、みんな我慢しましたよ。広島と長崎に原爆が落とされた時は、何か恐ろしいものだっていうことは聞きましたが、原爆が何かはわかりませんでした。

なんだか変だと思ったのは、夜、飛行機がビラをまくのよ。紙がキラキラ光りながら落ちてきて、それに「降伏しなさい」と書いてあった。今思えば、敵は余裕だったのね。それで兄たちも、「ああ、もう日本はだめなんだな」と言っていたのは覚えています。