次の世代へ 幸せをつないで
戦後、1947年に結婚して、東京での生活が始まりました。母は、「おめさんには過ぎたお人じゃ」と言いました。
夫と上京した時は、モンペをはいて、食べ物いっぱいのリュックを背負って、すし詰めの汽車に乗りました。私は洗面所の窓から押し込まれて、女性3人、上野までの14時間そこで立ちっぱなし。途中で一時停車した日暮里の駅で、別の車両に乗っていた夫がホームに降りて、私の様子を見に来てくれました。窓の外で夫はニコニコしていましたが、私は「日の暮れる里」という駅名を見たらさみしくなってしまって。うちに帰りたくてべそをかいたものです。
夫は戦争でフィリピンに行っていました。もともと戦争は大嫌い、軍人とか権力っていうのが大嫌いだったのに、主計(経理)の試験に受かって軍隊に行ったのです。戦地ではとてもとても苦しい目にあったようですが、時折、「大変な思いをしたよ」と言うくらいで、私も根掘り葉掘り聞くことはできませんでした。
日本の兵隊たちは食べるものなんて何もなくて、夜になって攻撃がやむと、夜中に食料をあさりに出たらしいわ。アメリカ兵はその点では恵まれていたって。ひとりひとりに乾パン、お肉やスープの缶詰、食後のお菓子や煙草までが入った「レーション」という糧食が支給されていた、と。
夫は敗戦とともにアメリカの捕虜になりましたが、通訳を命じられて、45年の12月には日本に帰国できました。私が彼から聞いた戦争の話はそれくらい。話すのも嫌なほど、ひどい経験をしたということではないでしょうか。
私は今でも、「母から受け継いだお料理を伝えることで、次の世代へ幸せをつないでいけたら」と、お料理教室やテレビのお仕事を続けております。それも平和だからこそ。食べることは生きることだと、いつも感謝しているのです。