絵描きになりたいなんてもちろん言えない

たとえば召集令状が来て出征するという時に、送り出す側は二つのことを言うの。一つは「おめでとう」。そのあと小さい声で「こう言わなきゃいけないからね」って。誰かに聞かれたら大変なことになるけれど、誰も心からおめでたいとは思っていなかったんだよ。

健康優良児だった安野さん1歳の頃(写真提供◎安野光雅美術館)

僕は、子どもの時から絵が好きで絵描きになりたかったけど、もちろんそんなことは言えない。で、おやじの意向で工業学校に入ったの。でも何しろ、みんな兵隊に行って、働く人がいないというので繰り上げ卒業。先生に勧められて福岡の筑豊で炭鉱に就職しました。

そうして炭鉱に行ってみると、僕より年が上の人は誰もいませんでした。ほかにいたのは、足を負傷していたり、目が見えないなど障害を負った人たち。朝鮮から徴用で連れて来られた人たちもたくさんいました。体力が要求される職場だからか、食料の配給はほかよりはよかったようです。とはいえ満ち足りるほどではなかったけれど。

炭鉱で僕は発破係でした。ダイナマイトを使った爆破なんて、学校では習っていません。でも、やったことがあろうがなかろうが、とにかくやらされる。炭鉱での発破は命にかかわりますから、それは怖かったですよ。

僕らが寝起きしていた寮には、毎日のように赤紙が来ました。召集されると、2升のお酒が支給されるの。それをみんなでワイワイガヤガヤ飲んで、また次の日、誰かに赤紙が来る。そんなに大きな寮でもなかったのに、どんどん若者たちがいなくなって。