上野動物園からパンダがいなくなった日

リンリンとのあいだには子どもが生まれないまま、トントンは2000年7月に死亡する。その後、リンリンとメキシコの「シュアンシュアン(双双)」とのあいだで交配が試みられたが、成功しなかった。08年4月、リンリンは息を引き取る。

こうして08年、上野動物園は1972年にパンダが初来日して以来、初めて「パンダ不在」の日を迎えた。次章で述べるように、当時の日中関係は非常にぎくしゃくしていた。新たなパンダが来るか否かは、それだけに日中関係の行き先を占う試金石と目された。

ただし、フェイフェイの贈呈を受けた1982年と、パンダ不在となった2008年とでは、パンダ自体を取り巻く事情もかなり変化していた。

1980年代以降、国際社会では野生動物保護のルール整備が大きく進んだ。その結果、もはや上野動物園は新たなパンダの「贈呈」を受けられなかったのである。

※本稿は、『中国パンダ外交史』(講談社選書メチエ)の一部を再編集したものです。


中国パンダ外交史』 (著:家永真幸/講談社選書メチエ)

ちょうど50年前の1972年10月、日中友好の証として、上野動物園に2頭のパンダがやってきた。しかし、中国がパンダの外交的価値に気づいたのは、1930年代にさかのぼる。戦争と革命、経済成長の激動の歴史のなかで、パンダはいかに世界を魅了し、政治利用されてきたか。国際政治、地球環境などさまざまな問題と絡ませながら、近代国家の自己像をパンダを通して国際社会にアピールし、近年では、一帯一路構想下でのパンダの送り先や、二度の北京五輪で採用されたパンダのキャラクターなど、その利用はますます巧みになっている。2011年刊の『パンダ外交』(メディアファクトリー新書)を全面改訂し、新章を加筆。