「祈る〈何か〉を持っていることを、その時、人は幸せに思わずにはいられないでしょう」(写真提供:photoAC)

自分というかけがえのない存在

謙虚になった心には、他人の苦しみや悲しみが鏡のように映ってきます。そしてその苦しみや悲しみに素直に反応し、思いやる心が生れます。他人の苦しみや悲しみに手を貸す力はなくとも、共にそれを分けもってあげようという想いが生じてきます。

人が生きるということは、持って生れた自分の可能性を、この世で極限に押しひらいてみることであり、そのために努力をすることであると同時に、自分のかけがえのない生と存在が、他の人に幸せを感じさせることではないでしょうか。

人は自分が幸福になるために生きるのです。ですから他人の幸福になるためにも手を貸さねばならないのです。そんな力が自分にないと思った時、人は祈りたくなります。

「どうかあの人の苦しみや悲しみを少しでもやわらげてあげて下さい」と、何かに向ってひれ伏したくなります。それが愛ではないでしょうか。それが祈りではないでしょうか。祈る「何か」を持っていることを、その時、人は幸せに思わずにはいられないでしょう。

家に仏壇を置いたり、神棚を置いたり、仏像に向って手を合せたり、神社のお札にお酒やお花を捧げたりするのを偶像といって、ある種の宗教は忌み嫌います。そのいい分も一理があります。人間は、自分の心に抱くものをある形にあらわしたいという願望を持っています。

自分の尊敬するもの、愛するものの形しろを常に自分の傍へ置きたいと思います。愛する人の写真や肖像画を自分の傍に持ちたいと願望します。神や仏は見えないので、こうもあろうかという形を想像して、思い描いてきました。