見守り幸せを祈ってくれる力

人間はおろかで、弱い者だから、生きている間にも、さまざまな誘惑に負けたり、まちがいをおかします。淋しさに耐えられない時も出てきます。そんな時、何かに身を投げだして、思うさま泣いたり、扶けを需めたり、甘えたりしたくなります。

神や仏は、そんな人間の弱さのすべてを見とおして、すべてをゆるし、受けいれ、励まし、時には叱ってくれるものなのです。何処から来て、何処へ行くかわからない私たちに、生れる以前の世界を覗かせてくれ、死んで行くべき世界を見せてくれる力なのです。

私たちが忘れていてもいつでも一方的に私たちを見守り、はらはらしながら、弱いまちがいの多い私たちの生を大過なきよう、幸せであるよう祈ってくれている力なのです。それを信じるか、信じないかも、決して向うから強制してくるものではない筈です。

仏教では仏との御縁が熟するのを仏縁と称しています。私は仏縁もまた授かるものだという実感を、自分の得度の経験で得ることが出来ました。

私のところに寄せられる相談の中には、※※教あるいは××教といって、他の宗教の一切を認めない立場をとり、先祖の霊がたたっているとかいうのが多いのです。あるいは一週間やそこらの修業で、霊を呼びだす力を授かるというのも聞きます。実際そういう人々が訪れてきたこともあります。

仏教にも2600年前の釈尊(ブッタ)は、神通力を持っていられて、様々な奇蹟を行われたという話も伝わっています。けれども、釈尊は神通力をよほどの時でないと使わないようにされていましたし、それを持つ弟子にもむやみに使うことを禁じられていました。