丹後局が後白河上皇の寵愛を受けるまで

もともと丹後局は後白河上皇の側近、平業房の妻でした。そして業房との間には二男三女があります。

いま以上に「お産は命がけ」のこの時代に五人の子を産んだのはすごいですよね。

父は定かではありません。そもそも丹後とか若狭とか、名前に国名がつく人は高貴な家の女子ではない。一条とか堀河とか、京都の通りの名で呼ばれる人の方が出自は上です。

それはともかく、夫は平清盛に逆らったために処刑されてしまいます。それから後に、後白河上皇の寵愛を受けるようになりました。

出自を重んじる貴族たちからすれば、いい顔はしにくいご縁ですが、上皇は庶民の文芸であった「今様」にのめり込んだ人ですので、そうしたことは気にしなかったのでしょう。

また、丹後局も上級貴族たちの批判など気にもとめずに、積極的に政治に口出ししていった。肝がすわってます。ネット上の匿名の評判にも一喜一憂してしまうぼくには、きっと耐えられません。