一度だけ、副作用に悩まされている夫に、「お父さん、一緒に死のうか」と言ったことがある。「僕は自殺しないよ」と返ってきた。そうやね。自殺はいかん。絶対駄目──。

いまの私は「会いたい。寂しい」と、遺影の夫に毎日話しかける。覚悟していたつもりだが、何なのだろう、この虚しさは。でも、もし夫が働き盛りのときに逝ってしまったら、私はこんなふうに泣いている暇などなく、がむしゃらに働いて3人の子どもを育てなければいけなかっただろう。

夫は死にゆく姿を子どもたちに見せ、私はしっかりと夫の骨を拾った。「これでよかったんだよね」。泣いたってどうしようもないのに泣く。

 

おにぎりを持参、穏やかなひととき

私たちは職場で知り合った。3歳年上の夫は大卒の新卒、私は高卒の中途入社。控え目で猫背で、憂いを帯びた面差しが私の母性本能をくすぐった。2年ちょっとで結婚して退社、1DKの公団での新婚生活がスタート。三女の私にも、両親は精一杯の嫁入り支度をしてくれた。

新婚旅行はグアムで、名古屋駅で胴上げされて羽田へ。夢のような時間が流れた。専業主婦として新生活を始めたある日、ローン会社からの通知が届く。えっ、なにこれ? 「新婚旅行代、払えなかったから1人分ローンにしたの」と夫。言ってくれたらよかったのに! これが最初の夫婦喧嘩だ。

2年後に長男を出産。夫は子煩悩でとても可愛がってくれた。そのうち名古屋から金沢へ転勤に。長女と次男は金沢生まれだ。ところが、夫がぶどう膜炎という目の病気になったことで7年ぶりに名古屋に戻り、今度は狭いマンション生活へ。パートだった私も一念発起、市の職員に運よく採用された。

その後も岐阜、浜松と転勤が続いたが、ついに戸建てを購入。姑を呼んで、6人での生活を開始した。姑にとっては慣れない土地で申し訳なかったが、同居にこだわったのは、長年福祉課で働き、独居老人を見てきた私のプライドだったのかもしれない。

子どもたちが次々と自立したので、3人で5年ほど暮らした。姑亡き後、10年ほどして夫は定年を迎え、65歳まで嘱託で働いた。この頃、夫婦2人でゆっくり過ごせたと思う。