(イラスト:横尾智子)

最後の抗がん剤治療が始まった。パクリタキセルも点滴で、2時間以上かかる。週1回を3週間続けて1週間休み。毎回、朝7時前に家を出るとき、おにぎり2つとお茶を準備する。夫はごま塩ごはんにアサリの佃煮、私はゆかりのおにぎり。ピクニック気分で、楽しみでもあった。

点滴を終えたら院内のコンビニでミートソーススパゲティを買い、遅めのお昼ごはんだ。夫は必ず言う。「お母さん、今日もつきあってくれてありがとう」。

パクリタキセルを7ヵ月。2ヵ月に一度のCT撮影で、がんの大きさに変化がないのはよかったが、薬が効いていないという。その時点で「もうやめます」と夫。

12月、クリスマスの夜。夫は横になると吐く。尿も褐色で、即入院となった。胃の腹膜に転移、肝臓にも浸潤している。次に行うのはがんの手術ではなく、口から食べられるようにする手術だ。手術は年明け1月6日。ずっと点滴だけなので、かわいそうに思う。

70歳にして初めての開腹手術、手術室までは夫と腕を組んで歩いた。手術後は、傷が痛むと言う夫を、LINEでひたすら励ますのみ。

3週間の入院の間は、抗がん剤を使っていないのでがんが大暴れしたに違いない。黄疸が出てきた。胆汁が出ないため肝臓にステントを入れる手術をする、と主治医。胆汁の状態の発見に、主治医に感謝したのも束の間、翌日になって突如、手術は中止。

担当外科医の判断で、もう肝臓の回復は無理とのことらしい。「あと1、2週間でしょうか」と本人の前で言った主治医が、悪魔に見えた。夫は泣かなかった。「僕はしぶとく生きるよ」。

 

思い出のタオルはとっておく

在宅治療に切り替え、夫が自宅に戻ってきた。訪問ドクターもナースもいい方で頭が下がる。痛みには医療麻薬を内服。多種の薬のせいか、便秘がちでトイレではすごい声でいきむ。胆汁が出ないため便は白く、尿も少量で茶褐色。そんな状態でも、食パン1枚は食べたし、お正月は雑煮のお餅を3個もたいらげた。それだけでも開腹手術をしてよかった。

夫が、2階の寝室の布団を1階におろしてほしいと言う。翌日、1階に介護ベッドを入れたところ、「楽だなあ」。2階で寝ていた頃、「本当にお母さんと一緒になってよかった。ありがとう」と言ってくれた。あれが2人だけのお別れだったと思う。

長男は、三日三晩介護してくれた。長女は会社の了解を得て東京から帰省し、うちでテレワーク。次男は、自宅から毎日パソコン持参で仕事。みんなで夫を1人にしないように見守った。

2月24日は、孫の6歳の誕生日。次男が夫のベッド回りでお祝いの準備をしながら、「お父さん、今日は死なないでよ。命日と誕生日が同じ日はいやだから」。「わかったよ」と笑う夫。次男一家が帰ろうとするとき、夫が「怒るかもしれんけど、手握って」と言う。その言葉で次男は最期だと思ったそうだ。泣きながら帰った。