部分と全体のバイアス(「無知の無知バイアス」)

「自分の見えている世界を世界の全てだと思ってしまう」ことで、SNSで起こっている大抵のコミュニケーションギャップは、このような思い込みで起こっている可能性が高いと言えます。

一つ例を挙げましょう。ネットやSNSであまりによく起きる構図です。

いまやネットの世界では、多くの人がWeb記事やツイートの「見出し」のほんの十数文字だけで発言の趣旨を短絡的に解釈し、それに反応して炎上を起こしています。それに対してそれなりの理性や知性を持った知識人と呼ばれる(あるいは自称)人が、「ちゃんと全文を読んでから判断しましょう」と諭すといったことはないでしょうか。

「確かに見出しだけで反応して短絡的に炎上させている人がいる」と思った人もいるかもしれません。しかしここで注目したいのは、その短絡的な人のほうではなく、むしろそれを(時に上から目線で)たしなめている「(自称)知識人」のほうなのです。

確かに見出しだけで良し悪しを判断し、時に他者の攻撃まではじめてしまうのは「話にならない」低レベルの話かもしれませんが、果たしてその「発言の全文」を読んだだけで、それを全体像と判断してしまってよいのでしょうか?

実はその見出しの元となった原稿や発言も、その背景に数年前に書かれた500ページの論文や著作という膨大な積み重ねがあったのかもしれません。

さらに、この論文や著作そのものも、執筆に至るまでに筆者が歩んできた歴史が前提条件として置かれているはずです。その前には民族全体や人類、あるいは地球が歩んできた歴史が前提とされているかもしれません。

要するにこれらは、(大きい人形の中に少しずつ小さな人形が入っている)という「マトリョーシカ人形」が逆の順番(小→大という意味)で無限に続いている「逆無限マトリョーシカ」のようになっていることに「個々のマトリョーシカ」が気づいておらず、(「ドヤ顔」で)自分より小さなマトリョーシカを諭しているという滑稽な構図になっているのです。

これを見ると、勝手に自分が知っていることを全体像だと思って上から目線で視野が狭い人を諭すことが、いかに危険かということがわかると思います。