「北条本」の由来と定説の変化

さて、「吉川本」は、大名の吉川家(錦帯橋で有名な周防国岩国の藩主)に伝来したのでそう呼ばれています。

では「北条本」は何かというと、こちらは鎌倉北条氏ではなく、戦国時代の小田原の北条氏に由来します。

1590年、豊臣秀吉は小田原城を攻略しました。このとき、北条氏への使者となって、降伏の段取りを決めたのが黒田官兵衛でした。

「鎌倉最大の衝撃」源実朝暗殺などを経て幕を閉じた「鎌倉殿の13人」。名シーンも数多く生まれました(前田晁 著『少年国史物語』第3巻,早稲田大学出版部,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション  (参照 2022-12-21))

家臣を犠牲にすることなく降伏できた北条氏側は、官兵衛に贈り物をしました。それが『吾妻鏡』でした。

そしてこの『吾妻鏡』が官兵衛の息子である黒田長政から徳川幕府に献上され、その本が後世に伝えられた。これが「北条本」です。

ところが、最近、新たな発見があって定説が変わってきました。史料編纂所の井上聡准教授によると、北条氏の代わりに関東へやってきた徳川家康が全国に使者を派遣して記事を集めて復元したもの、それが私たちが見ている北条本だというのです。

そこに小田原北条氏や黒田氏は関係ない。「北条本」という名前がそもそもおかしい。「徳川本」もしくは「家康本」とすべきだ、というのです。なるほど。