岡崎城(提供:PhotoAC)

今川氏の傘下に入り家名を維持

当時の三河国には国衆たちが各地に盤踞(ばんきょ)していた。戦国大名はおらず、東の今川氏、西の織田氏の影響力が大きかった。松平氏は多くの系統に分かれていたが、家康に繋がる松平氏は惣領(そうりょう)家の安城松平氏であり、祖父の清康は自ら「世良田次郎三郎清康 安城四代岡崎殿」と名乗っている。

清康は西三河を押さえて、さらに尾張へも侵出しようとしていた。有力な国衆であったといえるだろう。ところが、清康が天文4年(1535)に尾張国守山まで出陣した際、誤って家臣のために殺害されてしまうという事件が起こった。「守山崩れ」とよばれた出来事である。

『徳川家康の決断――桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで10の選択』(著:本多隆成/中公新書)

この当時、清康の嫡男の千松丸はまだ元服前という幼少で、岡崎城に入城した清康の叔父松平信定のために追放されてしまった。千松丸らは逃避行を続けながら復帰の機会をうかがうが果たせず、結局、駿河の今川義元を頼ることになった。

千松丸が今川氏の支援を受けて岡崎城へ帰還したのは、天文6年(1537)6月のことであった。同年12月に千松丸は元服し、加冠(かかん)役の吉良持広(きらもちひろ)の一字をもらい、広忠と名乗ることになった。このように、清康の時代には有力な国衆であった松平氏は、広忠の時代には今川氏の傘下に入ってかろうじて家名を維持するという、弱小な国衆となってしまった。

竹千代は松平氏にとっては大変きびしい、このような時期に誕生したのである。