今川義元と主従関係を結ぶ

天文18年(1549)、竹千代の父である松平広忠が死去した。従来は近臣に殺害されたといわれてきたが、最近では病没説も強まっている。

広忠が死去したことによって、竹千代は幼いながらも松平宗家の当主となった。岡崎城は今川氏により接収されたが、松平氏の領国や家臣たちの多くはそのまま残された。

竹千代が最初は織田氏、ついで今川氏の人質になったことはよく知られている。

一般に、人質というと何となく虐げられていたのではないかというイメージがあるが、竹千代の場合は必ずしもそうではなかった。於大の母で、竹千代にとっては祖母にあたる於富(おとみ)から手習いを、また臨済寺の僧で今川義元の側近の雪斎からも薫陶を受けたといわれている。

義元は竹千代の成長をみながら、その器量を見極めようとしていたと思われる。やがて天文24年(1555)に14歳となった竹千代は、義元が加冠し、今川氏一族の関口氏純が理髪をして元服した。

義元はいわゆる烏帽子親(えぼしおや)であり、義元から「元」の一字を与えられ、松平次郎三郎元信と名乗ることになった。これによって義元と元信との間には主従関係が結ばれたことになり、松平元信はあらためて今川氏配下の部将となった。

なお、元信はやがて関口氏純の娘を正妻に迎えることになる。築山殿とよばれた女性である。